潰しの利く人材
終身雇用が崩れ、何の前触れもなくいきなり会社から退職を迫られる、自分の意思に反して退職願を書かされるという現実がこの10年、目の前にやってきた。そこで、大学生たちも「30歳くらいになったときに自分を高く買ってくれるように育ててくれる会社」に行きたいと言い出した。実際、いくつかの大学の講師として学生に接すると、そういう会社なり業界を教えてほしいと相談してくる。「どこなら、いい転職先が見つかりますか?」と聞いてくる大学生が実は多い。
先ずは個人史的に日本企業の変貌を振り返ってみたい。私は高校時代、フランス文学を勉強したくなって文学部に進んだ。しかし、入学後は文学に関する授業を聴いて文学への関心をすっかりなくした。できれば他学部に移りたいとさえ思ったが、思い留まり、哲学や精神分析学、文化人類学、科学哲学などを中心に図書館にこもって勉強する日が続いた。所属は社会学専攻だったが、所属ゼミもなく、同級生の顔もほとんど知らなかった。また自分の専門としてやりたい科目は設置されておらず、興味あることについては全くの独学だった。
当時、現代思想が流行っていたが、その流行の寵児は都立大や東京経済大、国際基督教大学などに属していて、身近にはそういう華やかな世界とは縁遠い先生がつまらない授業をやっていた。勉強といえば、哲学研究会のサークルの仲間と読書会をやっていて、それは非常に役立った。特に議論することが楽しく、鍛えられた。
しかし、そんな不満を抱えつつも、4年になり、進学か就職で迷ったが、確たる専攻領域が決まっているわけでもなかったので、とりあえず就職することにした。指導を仰ごうとする教授も身近にはいなかったし、当時は今と違い、他大学の大学院を受けるのはそれなりに大変だった。先ず過去問題などの情報を得ることが難しかった。
やむなく就職活動をすることになり、その際に私が一番考えたことは、先ず人気企業を避けるということだった。理由は文学部ということで不利だと考えたからである。当時、文学部には就職面での差別がかなりあった。○○大学ですと言えば電話は人事につながるが、学部を言うと、電話を回してもらえない。面接に行っても、露骨な反応を見せ付けられたことがある。実際、面接でも「どうして文学部なんかに入ったの?」ってよく聞かれた。文学部のカリキュラムをほとんど無視して勉強していたのに、どうしてそう言われるか、理解できなかった。
またいわゆる消費財系は避けることにした。理由は下宿にテレビもなく新聞も読まない私には流行というのは最も苦手な領域だったからである。ちなみに、私は現在でもテレビはほとんど観ない。音楽も聴かない。映画は好きなので、気に入ったものを借りて観るが、習慣なので仕方ない。新聞はインチキ臭いし、報道にカラーがあるので、長いこと購読していない。ともかく、消費者に認知度の低い素材系のメーカーを中心に回ることにした。私なりの就職戦略だった。
幸いにして、大した質問が出てくるわけでもなく、ほとんど全勝に近い状況だった。自慢するわけではないが、大学時代、読書を通じて論理的思考力とか構想力を磨いていたので、それが非常に役立った。またどんな質問をされ、追及されても動じないで答える胆力がサークル活動で身に付いていた。ある意味で、知の体育会だった。
就職活動を前に急に慌てる大学生も多いが、学生時代、どんな専攻分野でもきちんとやり遂げていればかなりそれは役に立つと思う。業界研究とか小手先のことはほんの少しの時間で十分ではないだろうか。ただし、鍛えるのには2年以上はかかると思う。なので、早い時期からゼミ形式で徹底的に議論をすることは役に立つと思う。
私の場合、経営コンサルタントになってからも、大学時代の勉強、特にサークル活動は非常に役立っている。当時の仲間が数人、同じような仕事をしているが、太田秀一氏はその一人である。太田氏は当時の仲間の中では特段優れているという印象はなかったが、マーケティングやネットビジネスなどに関しては珠玉の経営コンサルタントということになっている。並み以上の連中は早くに大学に職を得て大学人になった。
自分の経験から、いわゆるMBA本などを読むよりも、哲学書などの人文系の古典を読破することが勉強になると思う。欧州では、トップエグゼクティブのほとんどが哲学での博士号を持った人である。日本では哲学を専攻というと不気味に見られるが、欧州の経営者には必須の学問、教養となっている。哲学を勉強すると、状況の変化を柔軟に受け止めることができる。
卒業後20年にして見れば、当時の内定先のおおくは破綻したり、再建中となっている。私なりに堅実な企業を選んだつもりだったが、バブル期に不動産投資や財テクで失敗したというところがほとんどである。自社が安定しているという観念が、余計に過大投資に走らせたのではないか、また哲学のない横並び意識だけの経営が会社をおかしくしたのではないか、とも思う。
私が最終的に就職先として選んだのは最近上場した内資系の石油元売りだったが、選んだ理由は曖昧で思い出せない。多分、総資産が大きくて長期的に成長性がありそうだというナイーブな判断だったと思う。その辺は文学部で世間知らずだった。また本社の立地がよくてメーカーなので、金融や商社よりものんびりしているだろうという勝手な私の思い込みが理由だったように思う。時間があれば本が読めるし、余暇が楽しめる、そう思った。少し早くに社会人になった田中康夫も最初はそういう理由で石油会社に入社したみたいだ。
先ず入社すると、最低限の荷物と布団を研修所に送るように指示された。私にとっては最低限の荷物といえば、哲学を中心とする書物だったので、みかん箱で書物を三箱、それ以外には忘れ物だらけで、現地で購入するのにえらく苦労した。シャンプーを借りたりすることもあった。研修所ではわずか2週間、その後はガソリンスタンドの研修のために東北方面に行ったり、そこからさらに仙台にも行ったし、一旦は千葉の研修所にも戻った。研修期間3ヶ月の間、赴任先は知らされず、本の入った重いみかん箱を何度も送っているうちに、とてもこんな会社では腰を落ち着けて本を読めないし、バカになってしまうと危惧した。バカになってしまうというのは学生時代に植え込まれた強力な暗示だった。
最終的に私の配属先は横浜になったが、仕事自体はそんなに厳しくなかった。しかし、夕方になると、食事会があり、飲酒を強要され、さらにその後はスナックで大カラオケ大会になる。そういうことが月に数回あるのは悪いことだとは思わないが、週に4回程度はあったと記憶している。時間にして6時スタート、12時に解散といった状況だった。費用は一切会社持ちか、先輩社員が払ってくれるので、その辺は身軽なのだが、私としては読書する時間がなく、非常に苛立ちを覚えた。当時はまだ高卒社員が多くて、その話題も下世話なものばかりで、その辺のチューニングができない私には合わせるのが大変だった。私は当時、12球団が何かすら知らなかったし、スポーツ新聞を手にしても読むところがないという青年だった。よきにつけ、あしきにつけ、思い切り偏っていた。
私は最初、工業用潤滑油の営業を担当していたが、その後、支店内で異動になり、文書作成とか情報システムの初歩レベルのようなことを担当するようになった。しかし、昼間に本を開けるような雰囲気ではなかったので、毎週日曜日にシステムの勉強をするために出社した。当時、データベースソフトとかが出始めで、動かせるのは経理担当だけしかいなかった。長年、そろばんというPCに慣れ親しんだ人が多くて支店では覚えようとする人が少なかった。また仕事を終えてからの大宴会が激しいし、長いので、マニュアルを見てじっくりと操作法を覚える余裕が社員になかったと思われる。
この点につき、知人の商社マンも同じことを言っていて、貿易実務などたくさん合格しないといけない資格があるのだが、激務の中で勉強時間を確保するのは非常に難しかったそうだ。私の場合、当時、危険物取扱者や高圧ガス取扱者などの試験があったが、日中にも隠れて勉強していた。一旦夕方、おじさん社員につかまると、12時近くまで拘留されるし、飲酒すると勉強など無理だし、朝は始業前でも新聞を読んだり、書物を読むことは厳禁だったので、仕方なかった。新聞嫌いの私も就業時間中の読める活字なので、その頃は購読紙を全部丁寧に読んでいた。多少、活字中毒が解消された。
思うのだが、新人教育を考えると、十分な学習時間を確保してやる配慮が必要ではないだろうか。月に数回は飲みに行くのもいいだろうが、週に3日間程度、帰宅後に勉強できるかどうかがその後の成長に大きく影響するように思う。社会人になって4−5年の間に、財務、簿記、法務、語学などマスターしないと、もうそういう機会は乏しいと思う。人間性を磨く意味でも読書は必要だと思う。
社会人になると、取るべき資格や習得すべき知識は事務系の場合、幅広い。簿記3級を必須にしている企業もあるが、財務分析を考えると、簿記は2級まで習得したいし、その上で財務分析をマスターすべきだろう。法律でも民法などは必須だと思う。その上で、今は語学(英語と中国語)なども必要になってきている。こうしたものをマスターするには相当の学習時間が必要になるだろう。会社の交際費などで飲み歩く習慣を極力なくし、入社4年くらいは仕事と共に、しっかりと勉強できる環境づくりが必要ではないかと考える。
ところで、私は最初の会社に勤務して、会社で求めている簡単な資格取得すら困難な状況を重く受け止め、会社への愛着心を次第に失っていった。私と同じように入社した社員の中には、大宴会に行くのが好きで、飲み会の席で大はしゃぎする人もいたし、彼は今でも在籍しているようだ。しかし、私にとってみれば、どうしても別世界のことのように感じられた。入社して3年目、私はもっと経理、会計を勉強したくなり、自費で簿記学校に通い、自主的に勉強していた。また異動に関しては英語の試験がよかったので、海外赴任という話が支店長からあったりしたが、ほとんど魅力を感じなかった。
私の経験談はこの辺までにしよう。1年ほど前、大手人材紹介会社のR社を退社された人がいて、潰しの利く人材について、次のようにコメントしていた。酷評なのはご勘弁願いたいが、引き合いがあるのは国際的なフィールドを広げる多国籍型メーカーだそうだ。トヨタやソニー、キャノンといったところが筆頭だろうか(具体的な社名は私の勝手な推測に過ぎない)。業界品定めは厳しく、他にもあれこれあったが、両極だけを紹介しておくことにする。
再就職可能性のことをエンプロイアビリティ(employability)という。日本の場合、早期退職したり、定年退職して再就職に有利なことは大きなことだと思う。なぜなら、新聞を見ても、求人誌をみても、55歳を過ぎるとほとんど求人がないし、よく見ていると45歳程度で単純作業のアルバイトでも求人年齢を制限している。定年またはそれに近い年齢で再就職する例としては天下りがある。官公庁の天下りが最も代表的で、社会問題にされながらも、脈々と続いている。企業はいつ解散してもどこかで活躍できるように人材を育てることが求められている。しかし、そうしてしまうと、自社の人材が定着化しない恐れも出てくる。
最初に勤務した石油会社の年配社員が、ここを辞めたらどこにも行くところがない。だからこそ、辞めずにすむように頑張らないといけないと言っていた。当時40歳代だった先輩は血液検査でいくつも異常値が出た、働き過ぎだ、とぼやいていた。しかし、働くという時間の中に大宴会があるので、私は苦笑してしまった。


株式会社アイ・イーシー東京都千代田区飯田橋4-4-15All Rights Reserved by IEC