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アンコール・ワットは「キセキのイセキ」(カンボジア)

数多くの世界遺産を有する東南アジアですが、東南アジアを代表する世界遺産といえば、カンボジアのアンコール・ワットをおいて他にないでしょう。カンボジアを訪れる観光客のほぼ全員が、アンコール・ワット目当てといっても過言ではありません。
はじめてカンボジアを訪れたのは14年前。もちろん、アンコール・ワットを見るのが目的でした。拠点となるのは、首都プノンペンから約250キロの距離にあるシェムリアップという町です。シェムリアップまではトレンサップ川を一気に遡るスピードボートという選択肢もあったのですが、プノンペンのゲストハウスで仲良くなったスタッフが「(ときどき悪い奴が出没する)ボートは危険だからやめておいたほうが……」と忠告してくれたので、高い国内線のチケットを購入せざるを得ませんでした。内戦の傷跡が完全に癒えていない当時のカンボジアは、まだポル・ポト派の残党が地方で不穏な動きを見せており、絶対に安全とはいえない国だったのです。

空路で1時間弱、シェムリアップは静かな田舎町でした。世界中から観光客が集まる町とあって、安くて快適なゲストハウスはすぐに見つかりました。抜けるような青空にヤシ並木――南国ムードあふれるのどかな景色を眺めていると、かつてこの地がポル・ポト政権下、クメール・ルージュによる惨劇の舞台になったとは信じられません。アンコール・ワットに向かう道の途中、キリング・フィールドと呼ばれる場所があります。ここはポル・ポト時代の刑務所で、ちょっと土を掘り起こすと、いまも人骨がゴロゴロ出てくるのだとか。空は晴れ渡っているのに、この一角だけは湿っぽく重苦しい空気に包まれていました。成仏できない犠牲者の怨念が、何かを訴えかけているのでしょうか。最初に感じた明るいイメージとは違うカンボジアが、そこには確かに存在していました。
翌朝、改めてアンコール・ワットへ向かおうと、ゲストハウスの前で客待ちしていた好人物そうな30代後半くらいのバイクタクシーの男性に声をかけました。カンボジアは非常に親日的な国。「日本から来た」と言うと大歓迎してくれ、お互いカタコトの英語でコミュニケーションをとりながら、遺跡へと続く緑豊かな道を進んでいきました。すると、やがて眼前に荘厳このうえないアンコール・ワットの堂宇が。手前には水をたたえた聖池があり、美しいシルエットを映していました。「来てよかった」――感動を抑えきれず、思わず笑顔を浮かべると、男性も屈託のない笑顔を返してくれました。遺跡群は広大なエリアに点在しているので、ゆっくり回ると1日では足りないほど。帰りの足をどうしようか思案していると、男性は「夕方までひと稼ぎしてくるけど、そのあとはずっと待っているから、時間を気にせず見学しておいで」と言い、颯爽と去っていきました。

アンコール・ワットもまた、内戦の歴史と無縁ではありません。寺院とはいえ、要塞のような構造になっているため、かつてポル・ポト派に占拠されていた時期があったのです。事実、遺跡内には弾痕がいくつも残っており、戦闘の激しさが偲ばれました。「地雷を踏んだらサヨウナラ」という名言を残し、戦火のカンボジアへ旅立った戦場カメラマンの一ノ瀬泰造氏。アンコール・ワットに魅了された彼は、未開放だった暗黒の時代に潜入を試み、最後はポル・ポト派の魔手に落ちて処刑されてしまいました。彼が命を賭してまで見たかったアンコール・ワットを、こうして気軽に訪れることができる幸せを噛みしめずにはいられません。シェムリアップ郊外の小さな村に、地元の有志が建てた一ノ瀬氏の墓があります。今年は没後40年、いまなお多くの日本人が訪れているそうです。

ゆっくりと遺跡を歩き、夕方4時くらいに入口へ戻ると、木蔭で涼をとっていたバイクタクシーの男性が、にこやかに手を振るのが見えました。「アンコール・ワットはどうだった?」と聞かれ、「素晴らしかった。また必ず再訪したい」と答えると、男性は「ミラクル」という単語を何度も口にしました。確かにアンコール・ワットは「ミラクル」と評するにふさわしい壮大なスケールの遺跡です。しかし、男性が伝えたかったのは、遺跡自体の素晴らしさではなく、「内戦中はアンコール・ワットが平和な場所になるとは想像できなかった」という意味なのでした。「俺の父親はポル・ポトに殺されたんだよ」――。平和な時代の到来が「ミラクル」という形容になるほど、人々の脳裏には凄惨な記憶がいまなお生々しく刻み込まれているのです。男性が「ミラクル」と感嘆した平和が、いつまでも続くことを願わずにはいられません。
 
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