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第2回
自覚する積み木
 −「個人」が立脚点
フィンランドの高校に入学して、最初に驚いたのは、どこの高校も単位制だということだった。それぞれの生徒が好きなコースを自由に選択して、自分の時間割を作るので、各生徒の登下校の時間も異なる。そのため、「クラス」という集団の枠が高校にはない。クラスが存在しないので、その替わりに生徒一人ひとりが学校生活の単位になる。ここで大切にされているのは、自分自身がどうしたいか、ということ。左右を見て他人の歩幅に自分を合わせる必要などなく、自分の意思に従って好きなだけ前進すればいいのだ。

 集団行動をしなくて良い友人たちは、本当にマイペースだ。一緒に時間を過ごすことが多い仲の良い友達がいても、ずっと同じメンバーで一緒にいつづけることはあまりない。私の場合も、その時々で違う顔ぶれがそろうことも多かった。いわゆる「仲良しグループ」の意識がないので、友達同士がトイレに連れ立っていくなど、彼らにとってはまるで異国のお話だ。時間割を組む時も、仲良しの子と同じコース選んで、友達と自分の時間割がそっくりになることも、まずあり得ない。同校の友人たちは、独立していてたくましく、ひとりで選択し行動することを少しもこわいとは思わないのだった。初めてフィンランドに来た外国人が「フィンランド人はとっつきにくい」と言う謂れは、きっとその辺りにあるのだろう。

ここでは、すべての立脚点は集団ではなく、個人にある。基盤となっているのはおそらく、「個人があって集団がある」という考え方だ。大きな集合体の基礎となるのは、他でもない一人ひとりの「個人」なのだ。もしも、「個人」がしっかりと成りたっていないと、「集団」はその特性を発揮できず、集まりとしてすら成りたたなくなってしまう。だからこそ、個人が自分の内面的なケアをすることに、とても重要な意味がある。自分を知り、受け入れ、大切にしなければならない。だからこそ、それぞれの価値観が尊重され、豊かな個性がはぐくまれているのだ。
そのような個人が形作る集団は、極めて異質な個性の集まりだ。異なる価値観を持った者の集団であり、「みんなと同じように」「自分の意思よりもみんなの意見に従わなければ」という集団圧力がほとんどない。

同質化され、集団意思に素直に従う個人やそのような人々で成りたつ社会は、たしかに効率が良いかもしれない。しかしその効率のよさの裏には、少しでも一定の基準を外れれば「自分勝手」という摩擦で削られるという現実がある。集団が個人よりも重んじられ、個人の単独行動や私的な思考の一切が抑制されているのだ。そのような、どれだけ集団の規範に近づけるかどうかが、人間の価値を決めるような世界では、生きる意味も希望も見いだせない個人が出てきても不思議ではないだろう。人は、他者に認められたい生き物だが、それ以上に自分自身に認められたい生き物だ。他者に認められることを優先し、自分自身が認めることの出来ないような自分と生きていくほど、辛く空しいことはないかもしれない。

集団と個人のあり方は積み木に似ている。すべて同じ形をした積み木を積み上げるより、さまざまな形をしたピースを上手く組み合わせた方が、外から力が加わった時に崩れにくい山ができる。絶妙な場所に他では補えないぴったりのパーツをはめて作った大きな積み木の山は、多少ぐらつくことはあっても、すべてが崩れ落ちることは決してないだろう。
大きな山の中で「自分にしかできないことがある」と自覚した積み木は、きっと支え方にもハリが出る。まずは、自分の積み木がどんな形をしているのか十分に知り、個人が自分の価値に気づくことが何より重要だろう。


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