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第5回
なぜ思考力が必要か
 高校や大学のディベート授業の時間など、フィンランドの若者がとてもしっかりと自分の意見を持っていることには、とても感心させられてきた。自分の意見と言うものは,
もちろんその場しのぎに繕われたものではなく、普段から思考を繰り返した中で生まれてきた結果だ。だからこそ、相手をうんと頷かせるほどの説得力がある。

  「自分の頭で考える」ということ。とても単純なことなのだが、実際のところ一日の中で私たちはどのくらいこの動作をしているだろうか。一日中思考しているという人もいれば、慌しくて時間がないまま毎日が過ぎ去っていくという人もいるだろう。
  学校でも、職場でも、上からの指示に従って動かなければならないシーンは、少なくはない。素直に従い、期待に答える。気がつけばそればかりがすべてになっていて、そんな自分で精一杯になっていることもある。そういった環境では、自分の意見を聞かれた時でもないと、自分の頭で考える必要がなくなってきて、次第に考えることが面倒にさえ感じるようになる。
  他人によって出された提案に賛成したり、他人の言うことを鵜呑みにするのは、自分で考えるよりずっと楽だ。鵜呑みにされた他人の方も、気分が良いし、そういうナイーブな人間は非常に扱いやすい。だが、そのパターンを繰り返していると、自分の知らないうちに思わぬ方向へ進んでしまい、いつしか「自分で舵の取れない人生」をただ何となく歩んでいる、ということもありえるのだ。

  それが鵜呑みにした他人の意見だろうと、それを自分の意見とするからには、もともと自分の意見だったものと同じくらい自信を持つようにするべきだ。私たちは皆、自分の見解には責任を持たなくてはならない。「だって、○○がそう言っていた」という責任逃れは通用しないからだ。外からの情報を受け入れたのは、他でもない自分。私たちには、何ごとも自分自身で常に選び続けていく必要がある。

  かといって、自分自身で思考する時も、毎回必ず結論にたどり着かなければいけない、という意味ではない。一つのことについて思考を始めて、すぐに答えが出ることの方が私の場合は珍しい。答えが見つからなくても、考えを頭の中にめぐらせることに、意味があるのだ。そして、何度も何度も、思考に思考を重ねて、確実に自分にとっての真実を編み出していく。忙しくても、思考する時間は割りと簡単に見つかるものだ。サウナに入ったり、シャワーを浴びている時間、自転車で通勤・通学している時間は、私にとって最高の「思考タイム」だ。ふとひらめいて、所かまわず思わず叫びたくなることもしばしばある。

  最近私の頭をなかなか離れない思考の種も、何気ない日常の中で拾ったものだ。顔の前をしつこく飛ぶコバエを意図も簡単につぶす私。だが、この一匹の小さなコバエの命を奪う権利が、果たして本当に自分にあるのだろうか。人間にとって、虫より同種の人間の命の方が大切なのは当たり前だが、人間ではない視点で二つの命の重さを比べたらどうなるだろう。人間の方が、生きている時間が長い。しかし、それが人間の命を虫より重いものにするのか。人間だと、死んだ時に悲しむ者が出る。けれど、そのことが人間をひいきする理由になるとも思えない。そもそも命の重さに違いなど、あるのだろうか…。疑問が疑問を呼び、始めれば自分なりの答えにたどり着くまで、どんどん深みにはまっていく。それが、思考の醍醐味だ。

  真か偽りか、個人が考える必要のない物事など、この世にはきっと一つもありはしないだろう。自明の理とされていることほど、批評的に思考してみる必要がある。その結果、もしも思考前と同じ結論にたどり着くことができたとしたら、その時は自信を持ってそれを本物だと呼ぶことができる。
  考えることを人々がやめてしまえば、この世界は止まってしまう。だが逆に、1人ひとりが考えるきっかけを得て、同時に考えることを始めれば、今までびくともしなかった歪んだ常識すら、動かすことができるかもしれない。私はそう信じている。



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