惻隠の心は仁の端なり

他人のことをいたましく思って同情する心は、やがては人の最高の徳である仁に通ずるものです。人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっているものですから、自然に従うことによって徳に近づくことができるのです。

  この諺は、「孟子、公孫丑・上」から採ってみました。少々難解ですが、孟子の有名な「性善説」に繋がっていますので、説明してみましょう。
 彼の分析によると、心の作用には「四端」といって、4つの要因があるとしています。丁度人間には手足が合計4本備わっていると同じように、自然にだれにでも備わっている心の作用です。それを列挙してみると次のようになります。

@惻隠の心……………「仁」
A羞悪の心……………「義」
B辞譲の心……………「禮」
C是非の心……………「智」

@が、「人に対する同情の心が仁につながる」。A「自分で恥ずかしいと思うことが、義につながる」、B「遠慮する心の作用は礼につながる」、C「良否の判断をする作用は智につながる」となるのです。
 このように自然の心の延長線上に徳のすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張しているのです。

 さて、「惻隠の心は仁の端なり」
ということを実社会の面で応用してみるとどういうことになるのでしょうか。
 「惻隠の心」とか「惻隠の情」という熟語は、難しい言葉のようですが、孟子の「性善説」とは別に「あわれみの心」という意味で広く常用されているようです。

 たとえば、「A君は今度、左遷されて、B支店に転任になった。しかし、人事部でも惻隠の情が動いたのか、給与面では配慮があったようだ」などというように使われています。
 このような俗な使い方でなく、もう少し孟子が使ったような本来の意味を考えてみると、人生行路のなかで重要な役割を果たす格言のように思えます。

 「惻隠の心」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。夏目漱石の言葉ではありませんが、「可哀相とは、惚れたということよ」というように、愛という心情に結びつき「他人を愛する」という博愛の精神と同類型の心の動きと思われるからです。
 社会生活を送る際にも、家庭生活を過ごすのにも、「愛の精神」が根幹にあって、大きくすべてを包んでいるようです。

 この事情を孟子は充分知りぬいたうえで「同情心やあわれみの心」がすべての徳目の出発点であると断定したものと考えます。
 キリスト教の中心の部分にも、「神は愛なり」という教条がありますが、われわれ日本人の心のなかには、愛という概念はなかなか捕らえにくく、実生活のなかではその考え方を生かしにくいようです。
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