朽木は雕るべからず
きゅうぼくは えるべからず

人間であればどのようなタイプの人物でも必ずよい点があり、欠点を修正することができると考えられがちですが、人によっては、矯正できない資質の人もいますから、その対応は、別に考えなければなりません。

「論語」「公治長編」によると、孔子は弟子の宰予が、昼から居室に入り込んで寝ているのを見て、「朽木は雕るべからず。糞土の牆は?るべからず、予において何ぞ誅めん」といったとのことです。
現代訳すると「腐ってポロポロになってしまった木の上に彫刻することはできないし、すぐどろどろに溶けてしまう糞でかためた土塀の上には上塗りはできません。私は、宰予のことを叱ったり、とがめたりする気にはなりません」ということになります。
「朽木牆糞」というように略して言うこともあります。要するに、教育して本人の成長をのぞんだり、欠点の修正ができない人がいるということです。そのときは、叱ったり、咎めたりしてはいけない、と教えています。

「馬鹿は死ななきゃ、治らない」などという俗諺もこの主旨に似たところがあり、改善のきかない頭脳を比喩したものでしょう。「蚊をして山を負わしむ」という言葉は、「荘子・応帝王」に見るものです。「小さな無力な蚊に、大きな山を背負わせようとすることは無理なことだ」という意味です。

 経営者のなかによく、「少数精鋭主義」をとなえる人がいます。
つまり、自分の部下はすべて優れた人物を集めて仕事をするという考えです。しかし、この考えは、現実にはそぐわないものです。部員が10人いれば、そのなかの2〜3人は、やや能力に問題があったり、性格上難点があったりする者が見いだされるものです。これをいかにリードして全体をうまく指導していくかということが、上司の仕事なのであって、はじめから全員が優秀であるにこしたことはありませんが、まず無理な話です。

 荘子の教えは、帝王の治世に関するもので現代サラリーマン社会のことを想定したものではありませんが、たいへん参考になります。よく会議の席上などで、特定の出席者に対して風あたりが厳しく、皆の前で集中的に詰問されるようなケースを見ます。その席では改善を約束したり、業績向上への努力を誓ったりして一応対処しますが、その後も同じような失敗や、不良成績は続くものです。問題は本人の能力・資質に適した業務が与えられているかどうかであり、むしろ、管理者側の責任が問われているのです。
「朽木牆糞」の教訓は、「どうしようもない人材は、本人を責めてはいけない」ということではないでしょうか。  

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