某シンクタンクで活躍中のM氏が発信する人事教育ウォッチング、“MM,05”。
今月は近年富に、注目が集まっているモチベーションについて、
歴史を踏まえ、ちょっと違った角度から切り込んでいます。
近年富に、モチベーションに注目が集まっている。コーチングなどのモチベーションを高めるための管理職研修や、社員のモチベーションに直接働きかける、かつての自己啓発セミナーにも似たような研修が企業の負担によって実施されている。

これらの研修に本当に意味があるか定かではない。コーチングについて言えば、基本的な考え方には多いに賛同するが、活用されている文脈を見ると、「豚をおだてて木に登らせる」ための手法と化している様に感じることがある。ポイントはコーチングを受ける人自身のために行うのか、他の目的のために使うのかであろうが、企業が導入する場合は、後者であるケースが多いのではないだろうか。

経営学におけるモチベーションに対する科学的なアプローチは、仕事のあり方の変遷と同期している。古くは、フレデリックテイラーが仕事の能率を上げるために作業分割を行い、ストップウォッチをもって労働者の管理を始めた時、仕事は管理者のものとなった。代償としてテイラーが従業員に渡したのが、出来高制の賃金である。テイラーの行った作業分割は、仕事=完成品から、仕事=部品とした。部品を作り続けることにモチベーションを持つことが、それ以前と比べて難しいと言うのは想像に難くない。よって仕事をすればするほど収入が増えるというモチベーションのための仕組みが必要となったのである。

1960年代になると、マクレガー、マズロー、そしてハーズバーグといって心理学的なアプローチをとる経営学者が、モチベーションに関する研究結果を発表し、注目を浴びるようになる。現在でもまことしやかに語られる「自己実現」や「衛生要因」(=やりがいは収入に勝る動機づけである)はこの頃から存在する概念である。近年これらが注目を浴びるのは、当時の時代背景と現代が似ているからなのだろう。1960年代は経済成長だけをとって見れば、米国は黄金時代であった。しかし、官僚主義的組織の肥大化を極めた時期でもあり、多くの企業がいわゆる「大企業病」に陥っていた。好景気ゆえに人が働くことに意義を見出せないという問題は看過されていたのかもしれない。
「自己実現」と「衛生要因」に共通するのは、人は主に金銭面の外的報酬のみによって動機付けられるわけではなく、「ある一定の水準」が満たされれば、「やりがい」なるものまたは「本当の自分」なるものを求め、それによって動機づけられるという考え方である。テイラーが仕事から奪った「やりがい」や意味を出来高制の賃金と交換することの限界を、もう一度「やりがい」によって克服しようというわけだ。

この問題は、「言うは易し」であり、具体的な解のないまま、20年の時が過ぎた。(自己実現については実証研究すら成果を見ていない)。そして1980年になると、組織文化や誇りに持てる会社、優れたリーダーシップが人を動機づけるという究極のアイディアが登場する。いわゆる「エクセレント・カンパニー」である。働くことの意義は、会社組織を通じて社会に貢献すること、そして社会通念上、善であり優れていると言える組織や指導者のもとで働くことが個人を動機づけるという論法だ。この考え方を支持する経営者は極めて多い。逆にアンチ・エクセレント・カンパニーを唱える経営者はいないと言った方がいいだろう。

さて、現代に至って、再び「自己実現」や「衛生要因」が頭をもたげているのはなぜであろうか?歴史は繰り返されるというが、結局のところ「エクセレント・カンパニー」も「官僚主義的組織」も、個人を動機づけるという意味では大差はなかったということかもしれない。また、1990年代以降、米国、そして日本においても、「企業は雇用を保証する」という、それまでの「心理的な契約」を一方的に放棄した事も「今更、会社でやりがいか?」という思いを高めたと思われる。

組織で働くことには、様々な意味合いがある。多様な人材に高いモチベーションを持って働いてもらうために、今、企業には何が必要なのだろうか。少なくともいえるのは、「自己実現」や「やりがい」という曖昧なものを持ち出したところで、何ら解決にならないということである。「誇れる職場」というのも、一部の企業を除いて、経営の勝手な思い込みであることが多い。

次回は筆者なりの具体的な策について述べてみたい。ポイントは前月述べたワーク・ライフバランスにあると感じている。


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