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――この七人の中で、先生が特に注目したいという武将は誰ですか?
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今までの自分の研究歴からして、今川義元、北条氏政、浅井長政。この3人は、自分がずっと追いかけて実像を明らかにしてきたという想いがあるので、重視したいと思っています。もちろん人気の点で言うと、真田幸村。また最近、明智光秀に対する評価もずいぶん変わってきたということもありますね。
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――今川義元、北条氏政、浅井長政。先生がこの3人を研究対象に選ばれた理由は?
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義元は地元(静岡)なので卒業論文で取り上げました。長政に関しては、その後大学院に進む時に、指導の先生から、「もっと小さい大名でやって、その大名についてはあいつに聞けと言われるぐらいまでやったほうがいいよ。義元は大きすぎだ。領国が大きいから完璧にはできないよ」とアドバイスを受けましてね。たまたま学生時代に近江の研究もしていたので、「浅井長政はどうですか?」と言ったところ、「おもしろいかも」と言われたんですね。
北条氏は大学院の博士課程に入った頃に自分の先輩が北条の文書をいろいろ集めていて、その資料を「使ってもいいよ」と。いろいろ勉強させてもらったのと、ちょうど後北条研究会という研究会ができて、その役員もやりながら研究していった。
ある意味では偶然なのかもしれないですけど、いずれも滅びさった大名。滅びたということにシンパシーがあることも事実ですね。「なぜ滅びたのかな?」ということをえぐり出すことによって、同じ失敗は繰り返さないようにという人生訓にもつながっていきますからね。今回はそれも出したいなと思いますね。
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――義元はどのような人物だったのでしょう?
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補佐役に恵まれていましたね。雪斎。その雪斎が早く亡くなったというのが、ある意味では桶狭間の敗戦の遠因でもある。それと、今の静岡県の磐田に見付という町があって、そこの町人たちが堺と同じで町人の代表が集まって町の自治を展開していた。その町に義元が介入しようとした時に、町人たちが連名で「町の年貢を年100石から150石にします。そのかわりに従来通り自治を認めてください」と言った時に、「わかった」と了承している。これは、後の信長の生き方と違いますね。信長は堺の自治を圧殺している。信長は一向一揆と敵対して、民衆の民衆による政治をつぶしますよね。義元はむしろ民衆の力、町人たちの力をそのまま活かそうとしていた。歴史にもしもということは言ってはいけないかもしれないけれども、信長が勝たないで義元が生き残っていれば、また少し変わったとは思うんですね。
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――北条氏政はどんな人ですか?
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北条家の領国を最大版図にしたのが氏政の時。今の群馬県、栃木県の一部あたりまで勢力圏にしていて、かなり大きな力をふるった大名ですね。元々は伊勢氏という京都の名門でもあって、それらのプライドから百姓出の秀吉なんかに頭を下げられるかという思いがあったのかもしれない。結局は頭を下げられず、秀吉によって滅ぼされる。まあ家督を譲った氏直が降参してしまうわけですけどね。氏政は最終的には切腹させられて、最後の最後になんとなくダメな烙印を押されてしまっているけれど、ダメな武将ではなかった。
たとえば、小田原評定という言葉がありますが、一般的な解釈だと、トップである氏政、氏直にリーダーシップがなく、部下たちが勝手にああだこうだと言って、会議が長引いて結論が出ないことの例えみたいになっている。私は『小田原評定』(名著出版)という本も書きましたが、当時の家臣、家老衆20人を集めて評定をやっているんです。月に二回。今の民主主義の走りみたいなことと言っていいでしょう。会社で言うと重役会議を月に2回やり、意見を聞いて方針を決めている。そういう意味ではすごく進んだ大名だったと私は理解しているんですけどね。
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――先生は、光秀に関しても新たな見方をされていますが。能力はかなりあったと思っていいのでしょうか。
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2011年の大河ドラマ『江』でもちょっと私の意見を活かしてもらいましたが、光秀は信長からひじょうに信用され、頼りにされていたと思います。でも光秀のほうはその信長の気持ちをちょっと理解してなかった。今でもけっこうありますよね。自分の気に入った部下には、厳しいことを言って鍛えようとするけれども、部下のほうはいじめられているように思ってしまう。信長にしてみれば、こいつが俺の跡を継ぐようなものだという思いで、厳しくあたったけれども、光秀のほうは嫌われているんじゃないかと思ってしまう。それが、謀反を起こすひとつのきっかけにはなっていると思いますね。
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――長政のことも考えると、信長が自分の真意をちゃんと伝えられれば歴史は変わっていたのでしょうね。
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そういうところはありますね。信長がもっと気持ちを伝えるのがうまかったら違っていたでしょうね。秀吉はへらへらしながらもやっていけたでしょうが、光秀は学者肌みたいなところもあるし、考えこんでしまったんでしょうね。長政に関しても、もうちょっと理解していれば一緒になって天下をとれていたかもしれない。
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――真田幸村という人は、知っているつもりでしたが、どういう行動をしたのか調べようとすると、意外にわからないことも多いようですね。
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真田十勇士自体はまったく架空ではないですが、史実ではなく、立川文庫の世界ですよね。真田幸村は小説などでも名前はよく知られていて、今また幸村人気がすごく高い。幸村は、関ヶ原の時の上田城攻めの時は、徳川本体3万8千の軍勢を小さな城で防いだのを見ると、ある意味すごい軍略家だったとは思います。もちろん父親の昌幸も一緒でしたが、これはすごいです。それに大坂の陣。特に冬の陣の時に、真田丸の出丸を作って冬の陣最大の激戦が繰り広げられた。そこで勝っている。軍略はすごく優れたものを持っていました。ただ負け組についてしまったというところが悲運というしかない。幸村がもっと場所を得ていれば、違った状況になっていたと思いますね。
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