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第3回
協調性ではなく、社交性
型にはめるのではなく、個人が自由で個性豊かであることが大切だという話をしてきたが、それではそんな異質な個人ばかりの集団が果たして集団としてまとまるのか、という疑問が沸くことだろう。ロヴァニエミの高校の頃の担任の先生に、「学校は何をするところ?」と聞いたことがあるのだが、彼女が第一に挙げたのが、「他の人間とうまくつきあっていくための術を学ぶところ」だった。
  フィンランドでは、小学校から大学まで、他人と共同作業する機会が常にある。小学校では、席替えがとても頻繁に行われ、毎回できるだけちがう人のとなりに着くようにする。しかも日本のように机を均等に並べて黒板の方を向いて座るのではなく、四、五人ごとに机をまとめて座るため、グループ活動をするのが容易だ。グループのメンバーが誰だろうと、そこにはハーモニーが生まれ、それなりにグループとして成りたつ。他の人と共に力を合わせるための絶好の練習になる。すでにコミュニケーションの取り方が身についた頃である高校や大学では、ペアになってレポートや論文を書いたり、プレゼンテーションをしたりするシーンも多い。

  日本ではしばしば、自分の意見をはっきりと声に出して言うと、「協調性がない」という言葉を返されることがある。その意見が集団の意思とは反対だと、なおさらつよい向かい風となる。ここで意味する協調性とは、集団の運営がスムーズにいくように自分を抑え、他人に合わせることなのだろう。こういった犠牲精神が、人々を疲れさせ、他者に対してオープンであることを億劫にさせる。そんなことから私は、フィンランドで小学校から育まれているそれを、協調性(Cooperativeness)ではなく、あえて社交性(Sociability)と呼びたいと思う。

  フィンランドに暮らしていて思うのは、ここの人々は「人」がとても好きだということだ。国土が広いわりに人口が少なくて、人口密度が低いことも影響しているかもしれない。ひとりの時間や孤独でいられる空間も大切にしながら、友人や新しい人と会うのを心から喜ぶ。誰であろうと立場に関係なく、相手を一人の人間として尊重した、そんな心ある接し方をする。人と接するのが上手いという言い方をすると、変に巧みな感じがするが、実のところただ無理をしていないだけで、ひたすら自分にも他者にも正直だということなのだ。
  これは、グループ活動の時にも言える。自分を抑えるのではなく、むしろ自分を出していく必要がある。自分はこういう人間で、こういう考えを持っているということを、どんどん周囲に伝えていかなければ、集団としての活動は次の段階へ進むことができない。食事を作る前に、冷蔵庫を開けてどんな食材があるのか、それらで何ができるのか考えるのにも似ているだろう。本当は冷蔵庫の中にあったのに、気づかず、使い損なってしまうものがでてきてしまっては、大変もったいない。そして、お互いの視点や目的が明確になったところで、自然と自分にないものを尊重する気持ちが生まれる。他者が他者であることを尊び、そのままの姿で受け入れる。これが、異なる者同士が集団として共に活動する上で、最も重要な行為だと言える。
  自分とはまったく異なる者を受け入れるのは、簡単なことではない。だが、相手に合わせて無理をするよりは、ずっと容易いだろう。違いを超えて他者と互いに認め合うことができれば、個人の持つ可能性が何倍にもなる。はじき合っている場合などではない。あなたと私が、全然ちがう人間だからこそ。


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