過ぎたるは、なお及ばざるが如し

何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらないのです。過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよろしいようです。

 孔子の高弟に子貢という人がいました。彼はなかなかの人物でしたが、人物評が好きで、孔子はややもてあまし気味のようでした。
 あるとき、子頁は同門の2人を比較して、「どちらが賢明ですか」と尋ねました。孔子が「A氏の方は度が過ぎているし、B氏の方はやや不足ぎみだ」と答えると、子貢はすかさず「すると、A氏の方が優れているのですね」と重ねて尋ねました。これに対する孔子の答えが、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」だったのです。
 子貢はもちろん、学問がよくでき、しかも頭の鋭いA氏の方がB氏より優れているという返事を期待していたのでしょうが、孔子は期待に反して、「おなじようなものだよ」と答えたのでした。この返事のなかには、ものごとはなんでも、行き過ぎの状態よりもむしろ、つつしんだ方がよいという暗示がこめられています。とりかたによっては、子貢の才気を押さえるための言葉かも知れません。

 実際の生活のなかで注意してみると、やり過ぎや度を超した美点がかえってマイナスとなり「真面目すぎる」「正直すぎる」「賢すぎる」などと言われている人がみられます。それぞれについて考えてみましょう。
 まず、「真面目すぎる」ですが、世間には「真面目人間」という類型の人間像があります。「他人の言うことをまともに受け止め、一生懸命やっていれば、それでよい」と考えているのです。
 毎年新入社員を迎え、教育し実社会に適用させるのが難しいのは「真面目人間」あるいは「清廉潔白型」だったことを思い起こします。

 真面目で一生懸命やる人は、仕事が順調にいっている場合はいいのですが、上司と意見が合わなかったり、自分のミスで失敗したときなどに、ひどく悩み落ち込んでしまうことが多いようです。「やや余裕を持った真面目さが、社会生活を送るのに必要」といえましょう。

 また、真面目なことは美徳ですが、あまり真面目すぎると、はためいわくになることが、少なくないようです。
 さらに、問題なのは「賢すぎる」ということではないでしょうか。
「賢明である」ということは人にとって大切な長所であり、人間としては是非とも賢くなりたいと願うのも当然といえます。
 しかし、賢さを真に生かすのはなかなか難しいようで、下手に、賢さを振りまわすと、「小賢しい」ということになり、これも人間関係を損ないます
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