桃李成蹊

人柄の良い人や、人徳のある人のもとには自然に人が集まってきます。まるで桃や李の木の下に小道ができるように、気の合った友人が自然に通ってくるようになるものです。

  原文は、「史記・李将軍列伝・賛」に桃李ものを言わざれども、下自ら践を成す」とあり、ここから取られた熟語です。
 現代語にすると「桃や李は、口はきけないけれど、そのかぐわしい香りを認めて自然に人が集まってきて道ができます。人格者は自己宣伝をしなくても、その人徳を慕って自然に人が集まってきて、いつしか道ができてしまうものです」となります。
 東京都にある成践学園はこの故事にちなんで命名されたものです。つまり創始者がそのような人に慕われる人格者を育成したいと考えたからでしょう。
 この他、桃李を使った成語のなかに「桃李門に満つ」というものがあります。こちらの方は、桃や李の苗木を植えておくと、やがて花を咲かせ実がなることから、将来性のある若者のことを指しています。いずれにしても、立派な人びとが集まるということは、幸一杯になることに繁ると思います。

 甘い蜜のある花や果実に蜂や蟻が群がってきます。
 まつり、金のあるところ、利権のあるところ、将来性のある事業に対して、現代人の嗅覚は非常に発達していて、山の中であろうが、どこであろうが困難をおかして追求してくるものです。「お金の実る木」の下に、道ができるのは当然といえます。

 また、現在の塾のあり方をその道の人に尋てみますと、優れた先生がいて、生徒の志望校合格率が高いことが母親たちに知れると、遠いところからも生徒が集まってくるとのことです。有名塾に入塾希望者が多いのは、優れた講師をたくさんかかえているからだということも領けるところです。
 問題は人徳のある人のところには、自己宣伝をやらなくても自然に友人や、門下生が集まってくるものかどうかです。たとえは桃の木のある場所が、深山で道もないような所だとすると、そのような山の中まで、大勢の人が集まってくるでしょうか。

 そこで、「蹊をなす」というこを「小道ができる」と解釈すればある程度の納得がいきます。つまり、桃の下に出来る小道を通る人は、少数であっても安心のできる温かい友人であるにちがいありません。
 利害に結びついた交友であれば、大きな道路ができるほどの往来があっても、ある日バッタリととぎれるかも知れません。しかし、桃李の下の小道は、世の中がどんなに変っても決して絶えることフはないでしょう。
 現代のようなせちがらい世の中でも、心あたたかい人格者との交際はだれしもが望むものです。
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