◆改革開放政策の歴史

現在の中国の経済発展は改革開放政策の成功なくして実現しなかった――ということは、一再ならず触れてきました。その改革開放政策の歴史を振り返るためには、先ず同政策の貫徹に心血を注いだケ小平という人物について説明しておく必要があるでしょう。

1904年、四川省広安県の出身。20歳で共産党に入党し、その後は各地で革命蜂起や抗日戦争を戦い抜き、数々の軍功を重ねました。1949年の新中国成立後は、持ち前の才覚で頭角を現しますが、文革時には毛沢東から当時の劉少奇主席と共に「資本主義の道を歩む実権派」と糾弾され失脚。

毛の没後、政敵の江青ら「四人組」が逮捕され完全復活を果たすまでに、3度も失脚を経験しました。ただ、毛沢東も劉少奇は廃人状態で絶命するまでに叩きのめしましたが、ケの実務能力は高く買っており、「劉少奇とは区別せよ」との指令を出していたといいます。

晩年は軍事委員会主席として最高指導者の地位を確立。そして、1979年には市場経済を大胆に導入するという共産国家では例を見ない改革開放政策を遂にスタート(初の経済特別区を珠海、深?に設置)したのです。

1989年の「天安門事件」では民主化を求める学生隊を武力弾圧し、晩節に汚点を残しましたが、1992年には上海、武漢、広州、深?など南方都市を巡り「発展のチャンスを逃すな。とにかく改革開放を加速せよ」と檄を飛ばすなど(南巡講話)、1997年に没するまで一貫して改革開放を鼓舞し続けました。

当初は資本主義的要素の比重が高過ぎることへの懸念から、特別区建設への消極論も囁かれましたが、ケは「先富論」(条件の整った地域の者から順番に豊かになる)という理論を盾に改革を断行。これは共産党の精神とは対極をなす格差是認の考えであったものの、ケの基本理念は現在の江沢民体制に不変路線として受け継がれました。

巨星が逝って5年、WTOという世界の枠組みに加わった今、改革開放も新たな転換期を迎えようとしています。

弊社刊「図解でわかる100シリーズ」より

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