日本人はやはり創造力に欠けるかのだろうか !?

少し前になるが、ワシントンDCのシンクタンクが「The "Creativity Problem" and the Future of the Japanese Workforce」という日本人の「創造力問題」をテーマにしたパネルディスカッションを催した。以前よく耳にしたテーマが、今日でも、しかも米国のシンクタンク討論会で議論されるというのは、日本人にとって創造力というのは今もって未解決の大きな問題になっているということなのだろう。

しかし、日本人の創造力のあるなしを問うのはあまり意味のあることだとは思わない。米国人同様、日本人も創造力はちゃんと持っている。それに、日本人が米国人より創造力で格別劣っているとも思わない。
ただ、生まれながらに持っている個々の創造力を見つけ出し、それを伸ばそうとする教育姿勢や異なるアイデアにも耳を貸そうとする社会環境には、程度の違いとはいえ、両国間に確かに隔たりがあり、その隔たりが日本人の「創造力問題」の原因になっていると思う。

つまり、日本人にとっての問題は、日本人に創造力があるかどうかではなく、日本社会に創造力を引き出す環境が整えられているか否かにあるということだろう。

「自分で考えなさい。」 米国の教師は生徒に向かってよくこう語りかけると米国連邦政府に勤める知人が話してくれた。教師は、返ってくる答えの正誤だけでなく、その答えに到達するまでの思考過程をも評価対象にするというのだ。その一方で、教師は生徒に「相手の意見に賛成する必要はないが、相手は人間として尊敬しなさい」と人間関係の基本も教えるという。もしこの教え通りに子供が成長したとすれば、誰かがどんな奇抜なアイデアを披露したとしても、他人から辱められるような状況はなくなり、そこには、自分の創造力をどこでもいつでも発揮しやすい環境が自ずと生まれてくる。

教育の質の高さで定評のあるワシントンDC近郊のある私立小学校には、教師や生徒はもちろん全ての学校関係者が守らなくてはならない一つの規則があるという。即ち、生徒のどんなアイデアや質問も馬鹿にしないこと。生徒一人一人の個性を大事にし、学校関係者はあらゆる機会を利用して各生徒の創造力を引きだそうと努力するのだという。この小学校に通う子を持つ母親がパーティーの席で話してくれた。

他方、こうした教育環境の中、生徒には自分自身の考えを主張できる人間になることが期待される。実社会に出る前の「個」の最終トレーニング場ともいえる大学では、学生のオリジナリティーが試されるし、企業でも自分のアイデアを前面にだし強いイニシアチブで行動する社員が高い評価を受ける。米国社会は、全てが「個人」を中心に展開されているようにさえ見える。

ということは、米国での生活は「出る杭は打たれる」式の日本とは、随分勝手が異なる。いや、まるで正反対だ。「個性」を優先する米国と「調和」を優先する日本。「自己主張が当たり前」の米国と「自己主張が嫌われる」日本。日本で短期間過ごしたことがきっかけで日本びいきとなり、日本語の勉強を始めた米国人カメラマンは、米国を「I」の社会、日本を「We」の社会と表現していた。

日米のこうした価値観の相違は、もとよりどちらが良い悪いの問題ではない。ただ、あらゆる面で国際化が進む中、「日本株式会社」をより創造的で、より活力のあるものにしていこうと考える時、「個人」が持つ創造力を十二分に発揮できる社会環境の整備は必要不可欠になると思う。だが、そうした社会環境の整備は「個」の文化が日本社会で育つか否かにかかっている。

上記の日本人の創造力をテーマにした討論会では、日本で大学教授をしているパネリストの一人が、増えつつあるフリーターを日本社会の問題点として指摘していた。
また、危険を承知でイラクに入り人質になった日本人も、強烈な「個性」の持ち主だと思う。ただ、日本からのニュース記事を読みながら残念だと思うのは、彼等に対する日本政府関係者や国民の非難の合唱だ。

日本に帰国した人質の状況を聞いて「ええー、どうして?」と知人のアメリカ人が首をかしげた。非難されるべきは誘拐したイラク人であって、イラク人を助けようとした日本人人質ではないはずだと。

「グループ」文化でできている日本の土壌に「個」文化が根付くには、やはり時間がかかりそうだ。しかし、そうした方向に日本社会全体がゆっくり、でも着実に進んでいるような気がする。気長に待つしかない。
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