昨年の春、ある幼稚園の資金集めのためのパーティーに30人ほどが集まった時のことだ。ワインを片手に私と雑談をはじめた40代後半の男性が、自分は「哲学者」だと紹介してくれた。

生まれてこの方、自らを「哲学者」と呼ぶ人に会ったことはなかったから、その晩は会話が弾んだ。「直接的」「行動的」「大味」「表面的」「実利的」というような言葉がよく似合う米国社会にはプラグマティズム以外の哲学は存在しないと思っていたし、西洋哲学に精通している彼が禅にも興味があると言い出したものだから、ついついワインをすすりながらの長い立ち話となったのを覚えている。

その時以来、彼と会う機会はよくあったのだが、じっくり哲学の話をするようなことはもうなかった。図書館から借りてきた永平寺のドキュメンタリービデオや彼が出席した哲学者会議について数分立ち話をした程度だ。だから、彼の哲学が何であったのかを彼の口から聞いたことがない。

しかし、哲学をテーマに15年にわたってテレビ番組を制作する傍ら、近くの公立高校で非常勤講師として哲学のクラスも担当していた彼には、何か独特の雰囲気があった。大変な読書家で、彼のワゴン車の中にはよく本を見かけた。日課の犬の散歩も必ず何かを読みながらしていたらしく、彼の散歩姿を窓越しによく見かけた近所の人は、何にもつまずくことなく進行した彼のマルチタスクぶりに感心していた。また時折、「アレッ」と思わせるようなことを言ったりもした。ある日、我が家の前庭でドングリを一つ拾い上げ、その偉大さについて語りだしたのだ。

ジョージタウン大学で哲学を学んだ彼は、10年間、タクシーの運転手をしながら哲学者生活を送ったという。25カ国で放送されたという自作のテレビ番組の中では「哲学者」という肩書きでゲストと諸問題について語り、高校生とは死についてもよく議論した。また一歩外に出れば、自然の偉大さを肌で感じ取っていた。

書物をあさりながら、また他人や自然との会話の中で、彼は常に何かを問い、その答えを追求していた。日々、哲学をしながらの生活だった。

「 No Dogs or Philosophers Allowed」というタイトルの彼のホームページ(http://www.nodogs.org/) は、彼のそうした哲学生活を反映したものだ。このページを開くとまず、次の文書が一語ずつ現れる。"You are a citizen of a great and powerful nation. Are you not ashamed that you give so much time to the pursuit of money, reputation, and honors, and care so little about truth, wisdom and the improvement of your soul? '…from Socrates' The Apology (『ソクラテスの弁明』から).'" ひたすら金、名声、名誉を追いかけ、己の精神のケアを忘れてしまったかのように見える現代人の耳にも痛烈な言葉だ。彼が自分自身にも問い続けていた言葉だと思う。

哲学者ケン=ナイズリー(Kenneth Knisely)が亡くなったのは、9月25日。享年48歳。10月下旬の彼を偲ぶ集会には、彼から「哲学をする」ことを学んだ教え子や友人、同僚の多くが参加し、それぞれ故人との出会いを語った。

高校の哲学のクラスの初日、ナイズリー先生は20ドル札を取り出し、それに火をつけ生徒たちを驚かせた。実は偽札だったのだが、20ドル札の意義を議論するためだったと、ある教え子が当時を振り返りながら話してくれた。

癌の手術のため入院する3日前、電話で話したのが彼との最後の会話となった。いつもジーパン姿の庶民派哲学者ともう少し哲学談義でもしたいと思っていたのだが・・・・ 残念でならない。

Copyright by Atsushi Yuzawa 2005


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