水清ければ魚棲まず

自らの身を正しくして清廉潔白なのは、よいことには違いないが、あまり度がすぎると、他人のあらを見つけてはとがめだてするようになり、しまいには友人を失い、孤立してしまうようになる恐れがあります。

 出典の「漢書」「宋名臣言行録」によれば、「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば則ち徒なし」となっています。つまりあまりきれいな水には魚が住めないし、潔白すぎて、他人をとがめだてするような人は、仲間がなくなると述べています。
 また、「後漢書」には次のようなストーリーが語られています。「西域の総督の班超はなかなかの人物で、人情の機微に明るい人でもあったが、後任の任尚が、統治の心得をたずねたところ、『君はあまり潔癖すぎるから何ごとももう少し大まかな態度を取る方がよい』と教えました。しかし、任尚はこの教えに従わず厳しい方針で臨んだため辺境の平和を失うことになった」とのことです。このとき、「水清ければ大魚なし」と言いました。こちらの方は、官僚の統治上の政策論、方法論上の教訓になっています。
 いずれにしても、人間社会では、許される範囲での寛容さが必要であるということです。

 人生航路を円滑化するための秘訣として、よく「大人になる」ということがいわれます。そのくせ子供の教育の徳目には、「正直であれ」とか「真面目で清く正しく」などがあります。この教えが、実社会に入ったとたんに、「清濁あわせ飲む」とか「長いものには巻かれろ」とかいうような処世訓に変わってしまうのですから、学生生活を終えたばかりの人が戸惑うのは無理のないことです。
 
「いつまでたっても学生気分が、抜けないね」とか「もう少しは世間ずれしないとやっていけないよ」などと先輩からのアドバイスがあっても、なかなか頭の切り替えができないのが実情だと思います。だからといって実社会に入ってからも、子供の論理から抜け切れず、「書生論義」を振りまわすと、「とかくこの世は住みにくい」ということになりかねないのです。
 「大人になる」ということは、現実の世界に生きていくための知恵を身に付けるということで、理論を学ぶということではないということを知りましょう。
 このような現実論は一応は分かっていても、いざ実地にのぞんでみるとなかなか判断がつかないことに遭遇します。

 また、格言のなかには「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」というものがあります。倫理観の乏しい企業の一員となって、長年働いていれば、「倫理上価値判断ができなくなる」ように、悪い仲間と交際すると自分もスポイルされ、悪い集団の一員となることを警告しています。
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